写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

2009年6月アーカイブ

 

梅雨の晴れ間となった今日、午前中から新潮社のK編集者が、田村茂さんの撮影した太宰治の写真を持って来た。改めてネガから直接プリントした写真をまじまじと手にとって見つめていると61年前のことが昨日のように蘇ってくるから不思議なものだ。写真の持っている力、魅力は、こうした記録性とともに、人間の記憶や追憶という感情を蘇らせてくれるということもあると思う。北海道の屈斜路から上京しているという水越武さんから電話があり、僕の太宰紀行の写真を出版社でみて「いいね。とくに30年前の竜飛の写真がよかった。もうああいう写真は撮れないものね・・・」などと激励の言葉を頂いた。尊敬する先輩写真家からこうした言葉は何よりの励みになるものだ。

午後からは、弟子の塩崎君が忙しい中、来てくれて短期集中のパソコン講座をマンツーマンでしてくれた。とにかく器械オンチで、何も解らない男。カメラ機材に関しても時代遅れの30数年前のものを今でもメインに使っていることで有名なぐらいだ。教える方も、覚えが悪いからイライラしただろうが、教えてもらう方も頭は朦朧としてくるは、まぶたは重くなるは、喉は渇いてビールは飲みたくなるは、で大変な思いをした。結局、午後2時半から9時半までの7時間みっちりと。途中腹が減り、ざる蕎麦を僕が作って、二人でかっ込んでまたパソコンと格闘した。近所に古くからある飲み屋に塩崎君を案内して、いま旬の徳島の岩牡蠣をごちそうしょうと昨日、主人にオーダーしておいたのに、それもキャンセルとあいなった。トホホ・・・・。それでもがんばったかいあって、塩崎君が送ってきた写真データをちゃんと容量を小さくして、今日のブログにこのように挿入することができましたのだ。やっーた!!結局、塩崎君は、最終電車ぎりぎりの11時までいて、東京郊外の自宅へと帰っていった。本当にご苦労さまでした。そして心からありがとう。  合掌

中国四川省の成都にある武候伺で。撮影・塩崎亨
中国・四川省の成都にある武候伺で(2006年10月)。

この取材は、成都をスタートしてゴールは北京までを20日間かけ、三国志ゆかりの地を車で、5400キロ走り抜けるというハードなもの。当時、まだ会社員であった塩崎亨君が助手をかってでてくれて、2週間同行してくれた。その時に塩崎君が撮影したもの。彼は中国から帰国すると、僕の反対の声をもまったく無視して、幼子と奥さんのお腹のなかに子どももいるのに、傲然とフリーの写真家へと転身したのである。

もう大分経ってしまったが、6月5日、都内のホテルグランドパレスにおいて、「四人の写真家の褒章・受章を祝う会」が各界の多くの人々を集めて盛大に開催された。野町和嘉さんは平成21年度紫綬褒章、水越武さんは平成20年度芸術選奨文部科学大臣賞、今森光彦さんは第28回土門拳賞、大西成明さんは第18回林忠彦賞である。僕はみな親しい友人だから別々に会をやらず、一緒にやってくれたのがうれしかった。久しぶりに会う人たちも大勢いて、話がはずんだ。所謂、写真業界のひとびとだけでなく、文化人、出版、マスコミなど多岐にわたっての出席者の面々は、さすがに4人の顔の広さだと思った。当日、参加された人々の楽しそうなお顔をパチリと撮らせて頂ましたので、ゆっくりとごらんくだされ!

この日の会の主役4人が揃い踏み。僕は昔の新聞社の写真部時代を思い出して、「SIGMA-DP1」を持って最前線でパチリとやっていた。
この日の会の主役4人が揃い踏み。僕は昔の新聞社の写真部時代を思い出して、「SIGMA-DP1」を持って最前線でパチリとやっていた。

4人のご夫妻でケーキカット・・・・・。
4人のご夫妻でケーキカット・・・・・。

田沼武能日本写真家協会会長ご夫妻と大西成明ご夫妻と
田沼武能日本写真家協会会長ご夫妻と大西成明ご夫妻と

芳賀日出男、丹野章両日本写真家協会名誉会員とともに。
芳賀日出男、丹野章両日本写真家協会名誉会員とともに。

水中報道写真家の中村征夫さんと動物報道写真家の宮崎学さんは、とにかく動きが早い。カメラを向けても止まる気配すらない。
水中報道写真家の中村征夫さんと動物報道写真家の宮崎学さんは、とにかく動きが早い。カメラを向けても止まる気配すらない。

じゃ~ん!初登場。会の呼びかけ人である「K編集者」。と僕が雑誌で森鴎外の連載をしていた時の担当編集者だったT女史。当時、彼女は大学を卒業したばかりであったが、今や母として2人の子育てをし、妻としての家事もおこない、そしてりっぱな仕事をやり遂げる編集者として成長した。久しぶりに会って声をかけられても一瞬、誰だかわからなかった僕がそれだけ歳を取ったということなのだろうか・・・・・。
じゃ~ん!初登場。会の呼びかけ人である「K編集者」。と僕が雑誌で森鴎外の連載をしていた時の担当編集者だったT女史。当時、彼女は大学を卒業したばかりであったが、今や母として2人の子育てをし、妻としての家事もおこない、そしてりっぱな仕事をやり遂げる編集者として成長した。久しぶりに会って声をかけられても一瞬、誰だかわからなかった僕がそれだけ歳を取ったということなのだろうか・・・・・。

6月14日、小松健一主宰・写真研究会「風」の第一回例会が都内で開かれた。創立メンバーは、9人。東京3人、埼玉2人、福島、愛知、石川、岡山が各1人である。遠方の人が多いが、みな熱意は高い。この日も、名古屋から奥様同伴で参加した人、金沢から出てきて、この1年間写真専門学校へ通いながら研究会へ参加する人など、5人が作品を持ち寄り、厳しい合評が行われた。研究会の終了後の懇親会には、撮影の仕事を終えたプロ写真家のメンバーら2人も合流して遅くまで創作の話は弾んだ。次回は8月8日(土)に開催される。研究会では、引き続き創立メンバーの募集をしているので、やる気のある方は、ぜひ入会してください。興味のある方には、「風」通信を送ります。(お問い合わせは、「フォトコン」6月号参照のこと)

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写真研究会「風」第一回例会にて

武蔵野の太宰の旧居おぼろかな   小松風写

6月19日は、太宰治生誕100年の桜桃忌である。この日は午前中からK編集者と太宰が眠る三鷹市へ出かけた。駅を降りると何か雰囲気がいつもと違い一種、祭りへ向かう人々の熱気みたいなものを感じた。法要のある午後からは、いっそう混雑すると思い、まず墓のある禅林寺へ行ってみた。案の定、山門に入る前からすでに人人であった。太宰の墓の周辺はさらに混雑がひどく、まるで通勤ラッシュの電車状態で身動きがとれない。ようやく墓の前までたどり着いて、手を合わそうと墓をみて驚いた。献花や太宰が好きだった酒などはまあ、いっぱいあるのは予想ができたが、自分の書いた文章だの本、雑誌類などは、墓の中の太宰に読んで欲しいということか。極めつけは、さくらんぼを墓碑に押し込んでいることだ。いったいどういう神経をしているのだろうか。K編集者も「うんざりした・・・」と憤慨していたが、僕は太宰の涙のように見えた。それも血の涙である・・・・・・。それにしても太宰の墓の前にある森鴎外の墓をはじめ、辺りで眠る人々は、たまったものではない。ずけずけと入り込んでは来るし、墓を囲んである石の上にのって、携帯電話でパチリ、パチリとやっている・・・・・。草葉の陰から太宰もきっと苦笑していることだろう。

太宰治の墓のある禅林寺
太宰治の墓のある禅林寺

その後、太宰の旧居などゆかりの場所を巡ったが、どこに行っても「太宰マップ」を手にしたおば様、おじ様族ばかり。それもおのおの、太宰についての自説を大きな声でのべている。この19日、入水してから一週間の捜索によって太宰と山崎富栄の遺体が発見された玉川上水の場所へと行ってみた。さすがにここまでは、族の皆様は来ていなかった。その場所は井の頭公園のはずれで、玉川上水が大きく左へとカーブしている所である。あたりは深い夏草に覆われ、流れは澱んでゴミがずいぶんと溜まっていた。桜の巨木が傍らにあり、その当時のこともこの老木は、見続けてきた証人なのだろうと思った。


武蔵野の面影を残す井の頭公園の森

武蔵野の面影を残す井の頭公園の森

K編集者とは、井の頭公園で別れてから僕は一人でまた上水をさかのぼり、田村茂さんの撮影した太宰の写真で有名な陸橋へ行った。暑い中、一日歩き回った疲れもあったのだろう。その路上に座り込んでぼーと2時間ほどいた。ほとんど人は通らないが、小さな子供たちの遊び場になっていることがわかった。若いおかあさんたちもここなら安心と思うらしく、自転車などに乗ってやって来ていた。空が近い広々とした公園なんだなと思った。太宰が友人を連れてここに来ていた気持ちも少しはわかるような気がした。昼間はあんなに暑く良く晴れていたのに、夕日は厚い雲に覆われてまったく姿を現さない。もうだめだなとあきらめかけたその瞬間、真っ赤な太陽が雲間から顔を出してくれたのである。18時37分からわずか5分間だけ。太宰と田村先生が力を貸してくれたのだ。感謝しながらシャッターを切り続けた。日没後、太宰と田村さんが良く飲んだあたりの駅前の路地裏へ入って独りで、あらためて桜桃忌を偲んだ。もちろん大酒飲みの二人にならって、したたかに飲んだのは言うまでもない。

太宰が毎日のように通った井の頭公園で、本を読んでいる女性のうしろ姿が素敵だった。
太宰が毎日のように通った井の頭公園で、本を読んでいる女性のうしろ姿が素敵だった。

太宰の写真の入稿が一応終えて、一息ついた。本来は俳句同人「一滴」の会の句会であったが、疲れもどっとでたので申し訳ないが欠席にさせてもらった。もともと俳句は座の文芸と言われているが、僕はあんまり句会は好きでなく、この会だけでなく、他の同人になっている句会へもあまり出たことがない。句は独りで詠むものである。というのが僕の自論である。

久しぶりに時間がとれたので、梅酒と梅ジュースをそれぞれ2キロづつ漬け込んだ。実は、僕の家には、雨の日以外は近所の農家のおじいさんがその朝採れた野菜を一輪車に積んで売りに来るのだ。玉ねぎ、きゅうり、そら豆、枝豆など今の旬な野菜を一袋100円で玄関先まで届けてくれるのである。2日前に持ってきたのが青梅であった。10年物の古いのがたくさんあるので、迷ったが、おじいさんの眼に根負けてしまい4キロ買ってしまったのだ。

まず、8リットルのビンを2つ買いに4軒のスーパーを回った。5キロのものは売っているが8キロはなかなか置いてなかった。ようやく大きなスーパーまで行って仕入れた。次は砂糖は使いたくなかったので純正の蜂蜜2100グラム。35度のブランデーを3600ミリリットルを買った。梅は500円と安かったが、それ以外で8000円ほどかかってしまい高い梅ジュースとなってしまった。う~ん辛いものがある。
ジュースは、7月の暑い頃に飲み頃になるだろう。梅酒は秋以降である。先に漬けたらっきようが今、食べごろで冷えたビールや泡盛にもよく合う。やはり手作りの肴は最高だね。ウッシッシ・・・

20090617

梅雨満月金網の島ひかりそむ   風写

ここ一週間ばかり、約30年程撮り続けてきた太宰治に関する写真の整理をしてきた。僕が20代の頃、初めて訪れた津軽の竜飛岬のモノクロフイルムなど、その数は約400本ぐらいになっていた。石川啄木や宮沢賢治、森鴎外などは、著書も何冊かあるので撮影本数は多いが、太宰をここまで撮っているとは思っていなかった。これを全て見直し、セレクトしなおしたのである。モノクロはあらためて40枚ほどプリントした。ポジフイルムは、400点ばかり切り出した。若かりし頃、旅したことなど想い返しながら・・・・・・。

その間ずーとCDで音楽を聴いていたのだが、それが津軽が生んだ津軽三味線の名人・高橋竹山である。竹山は、陸奥湾に面した東津軽郡平内町小湊の農家に生まれた。太宰とは1歳年下で明治43年のそれも2日ちがいの6月17日が誕生日である。彼が奏でる哀愁のこもった「津軽じょんがら節」や「津軽よされ節」などを聴きながら、津軽の太宰が生まれ育った風土の写真をひたすら見続けたのだった。実は、高橋竹山は、僕は日比谷公会堂で撮影している。すぐ目の前でだ。フリーになりたての頃、日本の音楽家たちを3~4年間追いかけたことがある。邦楽、クラシック、ジャズなどあらゆるジャンルの音楽家たちを撮らせてもらった。作曲家の芥川也寸志さんにはずいぶんと可愛がっていただいた記憶がある。コンサートや打ち上げでは、先輩写真家の木下晃さんともよく一緒になったものだ。・・・・・・つまり、竹山の津軽三味線の調べを聴きながら津軽の写真をセレクトするのはとても心地よく、はかどったと言いたかったのである。

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2009年2月、津軽取材、浅虫温泉で。浅虫温泉は、太宰治にとっては、忘れられない土地である。太宰は、中学時代の4年間、青森で下宿生活を送っている。その時の思い出を『津軽』に次のように書いている。「母と病後の末の姉が湯治をしている借家に寝泊りし、青森の中学へ通いながら受験勉強をした・・・・」。また、版画家の棟方志功ゆかりの地、とくにこの椿館は棟方の定宿として知られていて、有名な作品も宿中に飾られている。僕たちに付いてくれた仲居さんは、弘前の人だがつい数ヶ月前までは、僕の故郷・上州の伊香保温泉で働いていたとのことで、話がはずんだ。雪の降るなかいつまでも見送ってくれた。(photo:K編集者)

梅雨空が続いていますが、皆さんお元気ですか。5日ぶりのブログです。僕の写真仲間で、とりわけ親しくしている写真家がいます。その一人は、北海道の摩周湖と屈斜路湖に程近い森に暮らす水越武さん。二人目は、信州の諏訪湖が見渡せる岡の上に暮らしている石川文洋さん。もう一人は、沖縄の泡瀬干潟が一望できる丘に暮らす小橋側共男さんだ。僕は彼らのことを「写真仙人」と密かによんでいるが、その南の仙人・小橋川さんから先日、突然電話がかかってきた。「いま、那覇空港、これから東京へ行くけど会える?」と。琉球の人は、いつもこれだ。音信不通の時は1年でも2年でも音沙汰がない。久しぶりにと思えば直ぐに会いたいとくる。でも僕は、こういうスッパとした生き方の沖縄の人が好きである。

彼は、石垣島の新空港建設問題で、美しい白保の珊瑚礁を守った写真家として知られているが、今また、新発見の生物が次々と続き、世界的にも注目されている泡瀬干潟の自然を守る運動の先頭に立っている。もうこの地に住み着いて10数年は経つ。泡瀬干潟「自然の権利」訴訟の原告団長を務め、昨年沖縄地裁で、県、市の埋め立て工事への予算差し止めを勝ち取った。しかし国や地方冶自体は、埋め立て工事をいまだ強行している。干潟を守る会の代表も務める小橋川さんは、朝夕毎日干潟を数時間かけて歩いているが、その姿は正に干潟を守る仙人に見える。ぜひ、みなさんもこの豊かな生物多様性の宝庫・泡瀬干潟を後世に引き継ぐために、ご協力ください。泡瀬干潟を守る連絡会 ホームページ

僕がもう30年ほど通っている琉球料理の店で。2代目の主人と歓談する小橋川さん。
僕がもう30年ほど通っている琉球料理の店で。2代目の主人と歓談する小橋川さん。

さて、その小橋ちゃんと、30年来通っている池袋の琉球料理の店など梯子して、僕の家に帰った。そして明け方まで、写真のこと、環境問題のこと、沖縄のこと、人生のことなどなど。語り明かしたのである。まるで青春時代へとタイムスリップしたかのように。・・・・・彼が沖縄へ戻った翌日に、東放学園映画専門学校・プロモーション映像科(2年生)の特別授業へ招かれた。1時間半の講義であったが、音楽家で映像作家でもある友人の金大偉君が、ゲスト講師として呼んでくれたのである。50人程の生徒のうち約30パーセントを占める海外留学生たちの熱意には、感心させられた。講義が終了した後で、僕を取り囲んで次々と質問したのは、みな中国、韓国、台湾などの青年たちであった。何か学生時代に帰ったような楽しい時間であった。

僕が作った夏野菜のさっぱり料理。器は沖縄の壺や焼きが多い。
僕が作った夏野菜のさっぱり料理。器は沖縄の壺や焼きが多い。

6月5日にお伝えした様に、パソコンが一時復帰して稼動したのもつかの間、また深い眠りについてしまい、その後、目を覚ましてはくれないのでやもう得ず修理へ。メールアドレス等は破壊されていて全て消えてしまいました。この間、デジタルカメラで撮影したヒマラヤ、中国、沖縄など写真のデータもほとんどを諦めざるを得ませんでした。トホホ・・・・・・。それでもなんだかんだとショプの店頭で25000円ほど取られました。もちろん修理代とは別ですよ。ついてな~い。

もうこうなったらもう一台パソコンを買ってやれと、半ばヤケクソ気味になって可愛らしいパソコン東芝のNB100シリーズというのを買ってしまいました。キーボードが小さいので僕の太い指先では、大変だったのですが何とか叩いて初めてのブログがこの小言です。ごめんなさい。・・・・実は、この数日間には、いろいろの事がありました。写真仲間である野町和嘉さんの紫綬褒章、水越武さんの芸術選奨文部科学大臣賞、今森光彦さんの土門拳賞、大西成明さんの林忠彦賞と4人の褒章と受賞を祝う会。それに立川志遊真打昇進披露落語会や沖縄から親友の写真家、小橋川共男さんが僕の家に来て遅くまで語りあったことなどなど・・・・・・。書きたいことはたくさんありますが、まだこのパソコンに慣れていませんので、今日はこのあたりで。そのうちに写真付でアップします。お楽しみに。

ご無沙汰してしまいました。実は6月1日の夕方、突然僕のパソコンがダウンしてしまい、まったく画面が立ち上がらなくなってしまいました。直ぐにカスタマーサービスセンターなどに電話で相談、あらゆることを試みましたが、やはりだめ。もう修理に出すしか方法はないと言われました。中のデータも消えるので至急全てバックアップを専門店へ行き取り、パソコンを送るようにとのこと。修理期間は早くても半月はかかるとのことでした。僕は耳を疑いました。この情報化時代、最先端を行く、コンピュターメーカーが、なにを時代錯誤的なのんびりとしたことをいっているのかと・・・・・・。いまのノートパソコンを買ってから2年ちょつとはたってはいるが、数十万円はした。千円、2千円のかいものではない。今の世の中、そのくらい安い品物のでも1年間保障はついている。それに対応がすべて手工業的である。電話は何十分も待たされ、あげく60秒に10円取られる。僕の電話に出た担当は3人。くるくると変わりその度に、一から名前、住所など言い、説明し、また待たされる。結局、通話は2時間に及んだ。たまったものではないと思いませんか。

もうらちがあかないと諦め、バックアップを取って修理に出すしかないと思いました。最後にコンピュターに詳しい友人に電話で相談した所、電源をはじめ全てを抜いて3~5日パソコンを休ませたらと言うのだ。あなたは、嫌われているのかもね。とも・・・・・・。とにかく藁にでもすがる思いで、言い付けを守り4日間言われた通りにしました。そして先程、久しぶりに電源を入れたのでしたが、最初はやはりだめ、やはり・・・と諦めかけましたが、パソコンに額を付け5分ほど祈りとともに話しかけていましたら、なんと・・・・奇跡的に「ぶーん」と音がし始めて稼動を始めたのです。うれしかった。これでまた、みなさんにブログを見てもらえると思ったのです。ありがとう。パソコンくん。これからはもっと大切にするから、末永くお付き合いをよろしくね。まるで恋人に話しかけるように、語りかけている僕でした。

瀬戸内の闇を越えきし夏の蝶   小松風写

 

今日6月1日は、「写真の日」。久しぶりの梅雨の晴れ間に、溜まっていた洗濯物を干していたら、土佐の知人から「小夏」が届いた。初夏の果物として土佐で最近、力をいれている農産物である。食べ方は、クリーム色の外皮をりんごをむくように薄くむき、白い内皮を残して食べる。この白い部分が爽やかな味がして旨い。高松の友人からも毎年届くものに「讃岐うどん」がある。これは星の数ほどある讃岐うどんの中でも推薦できる代物である。「石丸」というメーカーのもので、半生・包丁切りだ。赤穂の天塩を使っているので一味違うのである。釜揚げ、ざる、かけ・・・何でも旨いが、特に旨いのがいわゆるぶっかけ、釜たまうどんである。一度お試しあれ!

実は、僕はそれなりにれっきとした写真家ではあると思うが、決してメジャーでもなければ裕福でもない。つまり、現在の「格差社会」といわれるなかでは、落ちこぼれの部類に入るのだろう。まあ、僕の周りで作家活動を追求している写真家たちは、多かれ、少なかれ似た様な境遇である。そこで全国各地の友人、知人、写真の生徒などが、僕の貧乏暮らしを良く心得ていてくれて、また健康面なども気にかけてくれて、季節の折折に野菜、果物、魚をはじめ特産品やら名物など、時には酒まで送ってくれるのである。そうした優しい行為によって、確かに一人のフリー写真家が生き継いでいられることも事実なのではある。口の悪い仲間は、「お布施写真家」などとと冗談を言うものもあるが・・・・・・。兎にも角にも、なんともありがたいことだ。ただただ、こころから感謝するばかりである。  合掌。

土佐から送られてきた「小夏」と高松から届いた讃岐うどん
土佐から送られてきた「小夏」と高松から届いた讃岐うどん

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