写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

2009年5月アーカイブ

10年ぶりに戻った郊外のこの町も、大きな変貌をとげていたが、30年ほど前から変わらぬ飲み屋が何軒かあった。地元ではほとんどといっていいほど飲まないが、こうゆう店が存在してくれているのはうれしい限りである。あまりにも日進月歩で、店もくるくると変わるのが当たり前の世にあって、小さいけれども、常連客に愛されながら細々ではあるが何十年という歴史を刻んでいる店・・・・・・。そのひとつが駅前にあるホルモン焼き屋である。子どもたちがまだ小さかった頃、たまに金に余裕ができるとよく、ここに連れてきた。在日のおばあちゃんが切り盛りしていた。平屋の木造の店の中も外も、七輪からわき上がる煙とホルモンを焼く匂いが充満していたものだった。店は5階建てのビルの地下へと変わっていたが、場所はやはり前と同じで、駅前の路地にある。

こちらに戻ってから初めて顔を出した時にも、いつも店の真ん中にでーんと座っていたあのおばあちゃんはいなかったが、店員だった二人のおばちゃんは、「や~あ、久しぶり。何処かに行ってたの?」と僕をしっかりと覚えていてくれたのには驚いた。僕は年のほとんどを魚で通すほど、魚党である。だからめったなことでは、焼肉などの店には入らない。しかし、ここのホルモンはちがう。特に絶品なのは、レバの刺身。これだけはどの店にもかなわないと思っている。僕も日本中のほとんどを旅して来たが、いまだこのレバ刺しを凌ぐものには、お目にかかったことはないのだ。まず、レバが寝ていない、立ったままである。土佐で食べる鰹の刺身のごとくである。口にほお張ったとたんの歯ごたえある食感。プチプチと音が聞こえてくるのだ。ホルモン焼きに付けるタレも独特の風味がある。自家製のキムチもいける。ここに来るとどうしてもホッピーが進んでしまうのには、いささか閉口するぐらいである。

手前がレバ刺し、その上がカシラとナンコツ、一番うえが塩のタン。ホルモン焼きとくれば、後はお決まりのホッピーだ。
手前がレバ刺し、その上がカシラとナンコツ、一番うえがタン塩(各一人前)。ホルモン焼きとくれば、後はお決まりのホッピーだ。

昨日、半年ぶりに、ぶらりと顔を出してみた。いまも七輪で炭をおこし、金網で焼いている。時々あがる火の粉や煙を見ていて、遥か昔のことが蘇ったのである。それは、僕がまだ子どもの頃のことだ。当時の片田舎では、肉などという代物は、先ず口にはいることなどはなかった。せいぜい自分が育てたうさぎを正月につぶして、一家そろって食べるぐらいだった。僕がカツ丼というものを始めて口にしたのは、中学一年の秋。3ヶ月間にわたる厳しい駅伝の練習を終え、郡の大会で、10位入賞を果たした後、先生が町の食堂へ連れていって、カツ丼という少年たちにとっては、まるで得体の知れないものを食べさせてくれたのである。そのあまりの旨さが忘れらずに、その後も中学を卒業するまで駅伝の選手としてがんばったのは言うまでもない。これは僕だけでなく、みんなカツ丼のために、ひたすら走りつづけたのである。

話は長くなってしまったが、当時、仕事の関係で家を空けることが多かった親父が、たまに帰ってくると必ず、ホルモン焼きを食わせてくれたのである。隣町の在日朝鮮人の人から譲ってもらっていたらしく、包んでいた新聞は、朝鮮語だった気がする。その豚の内臓を親父が切り分け、味付けして一晩ねかせるのだ。食べる時は、近所中の子どもたちを呼んだ。本家のおじさんやおばさんもよく来ていた。庭で七輪に炭をバタバタとおこすのは、僕の自慢の役目だった。いまでいうミノやロースなどという高級なものではなかったが、子どもの僕たちにとっては、めったに口にできない何よりの馳走であった。みんな生焼けのものも我先にと争って食べた。それを親父たち大人は、焼酎を傾けながらニコニコして見つめていたのだった。・・・・・・・つまり、僕が何ヶ月に一度は、無償にこの店のホルモンを焼きを食べたくなるのは、味付けが、あの遥か昔、死んだ親父が作ってくれたあのホルモン焼きの味と同じだからである。・・・・・・・これでおしまい。長い話に付き合ってくれてありがとう。

珍しく丸4日間、アルコールを一切絶って極めて健康的な生活を送っていたのに、東京へ戻ったとたんパーティのハシゴだ。ここ数年は、パーティなどにはあまり顔を出さないように心がけてきたが、昨日はやもうえなかった。最初は、英伸三作品展「里と農の記憶 1965-2001」のパーティだ。写真展は、JCIIフォトサロンで5月31日まで。久しぶりに英さんのすばらしいプリント作品を見せてもらった。青春時代に、英さんの代表作『農村からの証言』(朝日新聞社刊)に憧れて、上州の片田舎から上京した頃を思い返した。一見の価値は十二分にある。いま、日本が抱えている食、環境、家族、高齢化など多くの問題の根っこがここにあるのだ。奥様の愛子さんの手料理はいつもながらに美味しく、お元気そうで何よりだった。帰りには、わざわざ一階の玄関まで見送っていただき恐縮の至りでもあった。

たまたま会場に居合わせた、フォトエデターの堀瑞穂さんと写真弘社の柳沢卓司社長とニコンカメラの方の4人で、タクシーで銀座にあるギャラリー新居へ駆けつけた。この日、「日本写真家ユニオン第4回オリジナルプリント展」のオープニングパーティが開かれていたからである。出品者は、水越武さんをはじめ、吉田繁さん、佐藤理さんら5人のJPUメンバーだ。それぞれ個性的な美しい作品で見ごたえがある。初日にもかかわらず、すでに水越さんの作品など何点か売れていた。この展覧会は、日本の中にオリジナルプリント写真の魅力と市場を広めることを一つの目的として、4年前にギャラリー新居と写真家ユニオンが提携して企画したものだ。その時から僕はJPUオリジナルプリント委員としてこの写真展に係わってきている。この日は、学生や若い人たちが次々と会場に訪れていてうれしかった。いま、都内にある60ヶ所のギャラリーで写真展が開かれている「東京写真月間」の影響もあるのだろう。ともあれ、実際に会場に出かけ、身近でオリジナルプリントのすばらしさを感じていただきたいのである。

日本写真家ユニオン第4回オリジナルプリント展・ギャラリー新居東京店(銀座)で、出品者を囲んで記念写真。
日本写真家ユニオン第4回オリジナルプリント展・ギャラリー新居東京店(銀座)で、出品者を囲んで記念写真。

僕が設立同人として入っている一滴(しずく)会の創立9周年を記念して、「写俳交流:緑と水のいのちと暮らし展  一瞬 世界の飛翔」が6月30日から7月11日まで、日比谷公園内の緑と水の市民カレッジ3Fで開催される。主催は一滴会と(財)東京都公園協会(詳しくは03-5532-1306)。この会は、写真家や編集者などを中心とした俳句の同人会である。現在代表の岡井輝毅さんをはじめ、写真家の故・稲越功一さん、中谷吉隆さん、細江英公さん、中野英伴さんらと9年前に設立したもの。現在は全国に特別会員をふくめると50人を優に超えている。年に1~2度同人誌「一滴」を発行し、毎月句会も行なっている。自ら学習をすることを基本にしつつも、講師を句会に招いて指導も受けている。いままでに招いた方々は、伊丹三樹彦さん、故・松井牧歌さん、正木ゆう子さん、池田澄子さん、黒田杏子さんたち。現在、俳壇で活躍している個性豊かな人たちである。

今回のそれぞれ各自の写真と俳句によるコラボレーションには、同人の他にも写真界のそうそうたる大御所たちもたくさん出品するというから楽しみではある。7月4日には、岡井代表と同人でいま、NHKテレビなどで人気のある板見浩史さんの講座もある。ぜひ、ご参加ください(無料)。僕と書家の豊田育香さんの写真と書と俳句よるコラボレーション「三国志の風景」が13ページにわたって掲載されている「一滴」第9号も会場で販売されていますのでお手に取って見てください。

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同人誌「一滴」の創刊号から第9号の表紙。細江英公、中谷吉隆、稲越功一さん、そして僕の作品も飾っている。デザインはやはり同人の佐川盟子さん

湯河原・天野屋の玄関へと続く赤い橋。現在は通行止めとなっている。藤木川の右手に往来の面影を伝えた木造の天野屋はあった。漱石は『明暗』の主人公、津田と謎の女、清子と邂逅のドラマをここ天野屋で展開させたのである。
湯河原・天野屋の玄関へと続いていた赤い橋。現在は通行止めとなっている。藤木川の右手に往来の面影を伝えた木造の天野屋はあった。漱石は『明暗』の主人公、津田と謎の女、清子と邂逅のドラマをここ天野屋で展開させたのである。

太宰治が壇一雄らと昭和10年の秋に遊んだ湯河原温泉へ9年ぶりに訪れた。以前は、写真研究会のメンバーたちと合宿で度々訪れていたが、その変貌ぶりにはただただ驚くばかりであった。少なくても10年ほど前には、まだ文豪・夏目漱石や島崎藤村、山本有三らが好んで逗留していた頃のたたずまいが、あちこちに感じられて山の温泉町の風情があったものだった。何よりも驚いたのは、漱石の名作『明暗』の舞台として知られる天野屋が跡形もなく消えていたことだった。他にも由緒ある歴史的な名旅館がいくつも廃業となって野ざらしになっていた。そして空いた土地には、決まって高層リゾートマンション。しかし、地元の人に聞くとほとんどが売れ残っていると言う。

あまりの虚しさにカメラを向け、取材する気にもならなかった。そうしたら深夜、水嵩の増した藤木川の音を聞いているうちに突然、句心がふつふつと湧いてきて、一気に22句詠んだ。・・・・そんな駄句までも、と言われるのを覚悟で、ここに僕のその時の心情のひとつの記録として残すこととする。ちなみに僕の俳号は、「風写」。加藤楸邨の弟子の俳人・石寒太さんが付けた。僕の俳句の先師は、高島茂さん。戦後の日本俳壇史のなかに歴然とした存在感を示している「ばん焼き ぼるが」の主人であり、俳句誌「のろ」の創刊者で、現代俳句協会賞なども受賞している俳人である。また後日、俳句の事についてはいろいろと書くこともあるので今日のところはこのへんで・・・・・・・・。

 

「五 月 行 」・・・・・・・・小松風写

うたたねし青年の車窓夏岬           風過ぎて青胡桃二つ落ちにけり

逃避行似合ふ濃い目の炭酸水         もののけの棲む万緑の風の森

眉に迫る山滴りて昼餉かな           昼下がり宿に迎えし白蛾かな

夏の瀬に背向けてゐる腕枕           蚕豆飯土耳古石のように並びをり

野天の湯早桃ひとつ朽ちにけり         竹の皮脱げし朝に爪を磨ぐ

栗の花匂ふシーツや注射針           親しげに声かけてくる山蚊かな

露天風呂頭上に夏の蜂光る           紫陽花の中に隠れてかくれんぼ

血を分けてやりし昼の蚊低し飛ぶ        新緑の峪に木霊すアべマリア

フランス映画観つつ髭剃る夏始          温泉街貫いてゐる夏の川

朝食の真鯵に碧き海のあり            漁師の皺深く刻みし夏の潮

夏海へ若き漁師の声とほる            根府川駅ホームは夏の海霧かな

深浦港  湯河原には、何年か前まで東京で企画会社をしていた友人の佐々木幸寿君がいる。彼は、結婚をして子どもができたのを機に、縁も所縁もない湯河原町福浦港にやって来て住み着いた。現在、「天恵丸」と子どもたちの名前からとった船を操り、漁師をしている。捕りたての鯛を捌いて一杯やったが、何とも旨かった。一本釣り、釣船、海洋観光にはぜひ、ご利用を。いい男です。www.sea-son.info
深浦港  湯河原には、何年か前まで東京で企画会社をしていた友人の佐々木幸寿君がいる。彼は、結婚をして子どもができたのを機に、縁も所縁もない湯河原町福浦港にやって来て住み着いた。現在、「天恵丸」と子どもたちの名前からとった船を操り、漁師をしている。捕りたての鯛を捌いて一杯やったが、何とも旨かった。一本釣り、釣船、海洋観光にはぜひ、ご利用を。いい海の男です。

湯河原町福浦港「天恵丸」のサイトへはこちらから

なんか、こうして書いていると毎日飲みまわっているように誤解されそうだが、仕方がない。続くときもたまにはある・・・・・。5月23日、東京都写真美術館で開かれた平成21年度弟9回社団法人日本写真家協会通常総会に参加した。会場には、久しぶりに会う面々がいて懐かしかった。みんな大変な状況のなかでもがんばっている様子で励まされる。総会は、まあ~、いつものように時間通り、スムーズに議事は進行した。役員改選があって若手の4人が入れ替わったことが、強いて言えばちょつと変わったことだろう。

いつものように終了後、賛助会社の人たちもまじえて、懇親会をする。その後さらにそれぞれが気の合う仲間と連れ立ってまたぞろ飲みに繰り出す。最近は飲まない人も増えたが、総じて写真家は呑み助が多い。無論僕もその一人に入るのだろうが・・・・・。この夜は写真に登場する先輩、同輩、後輩写真家たちとワイワイがやがやと夜の更けるまでやったのである。日本経済の向上に、少しは効果があったかな。は~い。

写真家竹内敏信、西潟昭子夫妻とフォトエディターの板見浩史さんと(5月23日・東京都写真美術館)
写真家竹内敏信、西潟昭子夫妻とフォトエディターの板見浩史さんと(5月23日・東京都写真美術館)竹内さんと樋口健二さんには、現研時代にずいぶんと世話になった。

写真家桑原史成さんと英伸三さんのお二人は、写真学校時代からのよきライバルであり親友だ。僕は若かりし頃、3年間ほど英伸三塾の塾生だった。
写真家桑原史成さんと英伸三さんのお二人は、写真学校時代からのよきライバルであり親友だ。僕は若かりし頃、3年間ほど英伸三塾の塾生だった。

ついでに僕を桑原史成さんが一枚撮ってくれた。「これはドキュメントだよ」と言いながら。
ついでに僕を桑原史成さんが一枚撮ってくれた。「これはドキュメントだよ」と言いながら。

日本写真家ユニオンの仲間、写真家芥川仁さんとJPSの新常務理事になったバク斉藤さん。
日本写真家ユニオンの新理事長、写真家芥川仁さんとJPSの新常務理事になったバク斉藤さん。

写真家熊切圭介さんと木村恵一さんは、僕のJPSの良き先輩です。
写真家熊切圭介さんと木村恵一さんは、僕のJPSの良き先輩です。

いつの間に、写真家野町和嘉、榎並悦子夫妻さんも合流して、酒席いっそう楽しそうだった。板場からパチリ。
いつの間に、写真家野町和嘉、榎並悦子夫妻さんも合流して、酒席はいっそう楽しそうだった。板場からパチリ。

5月22日、千代田区の東京會舘・ローズルームにおいて、「立川志遊真打昇進披露パーティ」が全国各地から300人をこえる人々が出席して開かれた。落語立川流家元の談志師匠を筆頭に立川流一門が打ち揃ったほか、大勢の芸能人が参加していた。深浦康一王位、イラストレーターの山藤章二さん、作家の吉川潮さん、歌手のミッキーカーチスさんら多彩な顔ぶれも参加していた。僕も招待状が来ていたので、写真の弟子の塩崎亨君と連れ立って、いそいそと出かけた。

当日は、小噺あり、歌あり、踊りあり、演奏ありの盛りだくさんのアトラクション。酒と料理に舌鼓ながらの贅沢な麦秋の宵のひとときであった。宴の雰囲気は、写真をたくさん見せますので、それぞれに感じてくださいませ。招待状の談志師匠と志遊師匠(もう君付けでは悪いものね)のごあいさつを紹介して、これからの志遊師匠の活躍を期待したい。後は小さなカメラSIGMA-DP1で撮った写真をとくとご覧あれ!!

僕とツーショットで写っているのは志遊師匠の奥様の智江さん。彼女は留学中のアメリカの医療機関の研究所から前日に帰国したばかり。辣腕の国際的なお医者さんだ。(photo:T.shiozaki)

「立川志遊を真打と認める。 落語に加えてコミックな踊りもあり 楽しませる技術(わざ)をもっている で一夕 志遊を囲んで 夢やら 愚痴やら 家元のワル口やら・・・ 是非ゝご参加下さい 身体の具合いが悪けりゃ迎えにいかせます    落語立川流家元 立川談志」

「惚れて惚れて 惚れ抜いて 師匠談志に入門し 皆様方の御支援で 十九年目の春が来る ”百年に一度の不況”だが 給付金がいただける 国からもらったお宝で 志遊の宴に足運ぶ こんな無駄で 贅沢な 遣い方は他になし ご来場 心よりお待ち申し上げます 立川志遊」

人と海のフォトコンテストして多くの人に親しまれてきた「マリナーズ・アイ」(主催:財団法人全日本海員福祉センター、後援:国土交通省)は、今年で20回目を迎える。応募の締め切りは6月15日(必着)。海に係わる写真なら何でもOKなので、どしどし応募して欲しい。(問い合わせ03-3475-5390)写真展は本年は記念展として、8月に東京芸術劇場で第1回展からの入賞作品を同時に展示。500点を超える大規模な展覧会となる。7月に神戸市庁、9月に北九州市立美術館、他で開催される。また20回記念の作品集も刊行される。

実は、僕はこのコンテストの審査員を16年前から務めさせてもらっている。最初は、写真家の丹野章さんと北洋写真家として知られる平野禎邦さんの二人がしていたが、平野さんの突然の癌での死によって、僕が引き受けることとなった。彼とは長い付き合いで、自宅のあった根室にも何度も泊まりにいった。とにかく海と写真に関しては、とてつもない情熱を持っていた。酒もめちやくちゃ強くて、彼と会う度にいつも圧倒されていたのだ。写真を撮るために北洋船にコックとして乗り込み何ヶ月も厳寒の海で生活をした。あげくのはてには、魚労長の娘さんと一緒になり、根室に住み着いたのである。彼が残した一本の写真集『北洋』(小学館)は、いのちのこもった傑作である。

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第20回記念 人と海のフォトコンテスト「マリナーズ・アイ」のポスター

この季節になると、八百屋の店先で気になるものがある。それはらっきょうだ。今年も、砂丘らっきょうを漬けた。3年前に2キロ漬けたのが、病み付きとなり、去年は3キロ、そして今年はとうとう4キロも土の付いたらっきょうを買い求めてきた。昨年までのガラス瓶では足らず、5キロ入る瓶も買ってきた。値段は500グラムで480円だったから、去年よりも若干上がった気がした。今年のらっきょうは、鹿児島産だったので、薩摩の黒酢をたっぷりと使った。それに香川県産の純正蜂蜜も・・・・・。こうしたオリジナルな味付けにするのが楽しいのだ。 

 約2週間ほど漬けこむといただけるようになるのだが、さらに漬け込んでいってもおいしくなる。去年漬け終えた汁は、いろいろな料理にも使えるので、捨てずにペットボトルに入れて冷蔵庫にとってある。実は家の中は、僕が作ったさまざまな果実酒??がいっぱいあるのだ。中国の雲南や四川省の山間部で仕入れてきた天然の朝鮮人参やクコの実をはじめ、梅、枇杷の種など。珍しいのは、信州・奥伊那で求めたスズメ蜂入りの酒。持ち主よれば、プロレスラーのジャイアント馬場さんが特注して年2~3本作っていたのだが、突然亡くなったので僕に譲ると言うのだ。ちなみに馬場さんは、まったく酒は飲めない方らしいが、体力増強のためにこのスズメ蜂がそのままの姿で浸かっている酒をやっていたらしい。 では、僕も馬場さんにあやかってと思い、想像を膨らませて、こっそりと飲んでいたがある時、それを知った友人が「スズメ蜂の毒は、目によくないらしいよ。君は写真家、目が命だからやめた方がいい」などと脅かすので、それっきり飲んでない。他の酒も然りで、すでに10数年がたって美味しそうな琥珀色をしたまま、我が家でひたすら眠っているのである。 

 

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鹿児島産の砂丘らっきょう。葱は自家製を友達が送ってきてくれたもの。らっきょうの季語は夏。虚子や蛇笏も詠んでいるが、あまりできばえはよろしくないような・・・・・。

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埼玉県ふじみ野市を本拠地として活動をしている「写真集団・上福岡」は、今年で創立27年目を迎える。この会は、最初は市の肝いりで、当時、市内に一つも写真のサークルがないなか、公民館活動の一環として写真教室を4年間続け、その終了生たちが結成したものだ。僕はその頃まだ、写真家になったばかりの駆け出しであったが、上福岡市の依頼で講師となった。以来の付き合いだから、もう30年余。この会は、僕のプロ写真家としての歩みを共にしてきた伴走者みたいなものである。

「写真集団・上福岡」は、毎月欠かさず例会を開き、毎年、写真展を開催して26回を重ねた。弟10回記念展は、渋谷のドイ・フォトプラザでおこなった。女性のメンバーだけの写真展を開催したり、個展や作品集の刊行などもしてきた。数々のコンテストの賞も受賞している。いままでの延べ会員は、1000名を超え、会のなかで知り合い結婚した人、鬼籍に入られた人など、様々な人間模様があった。僕もメンバーの仲人をやらされたこともあり、今ではいい思い出である。新公民館の建設を推進して、写真の暗室を作らせたりするなど、この地域においては、いまでは大きな影響力を持つ写真クラブへと発展してきたのである。

僕はこの会の顧問ではあるが、会の運営には一切口を出した事はなく、総会にも参加したことはない。誰が役員になったかも後で知らされる。つまり会の運営は全て会員にまかせ、僕は写真の指導だけに、この27年間専念してきた。だからこそ、教室から数えて31年間という長い歳月を続けてこられたのだと思う。第3回展から2代目の会長としてやってこられた、柴田格一元会長は現在84歳だが、お元気に毎回例会に参加している。「いま、撮影している大樹をまとめ個展と作品集を出すことが今年の目標ですよ。先生頼みますよ」などと逆にいつも僕が励まされているのだ。小さな地域での小さな写真サクールではあるが、僕は地域に根付いた草の根の文化活動とは、「写真集団・上福岡」みたいなものではないかと、ちょつぴり誇りに思っている。

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「写真集団・上福岡」のメンバー。毎回白熱した合評が行われる。例会において、自分の推す作品を5点ほど選び、その得点が加算されて12月に年度賞作家が決まる。(5月21日例会にて)

(書:小松風写)
(書:小松風写)

月刊カメラ雑誌「フォトコン」の2008年度、「中・上級コース自由作品の部」の審査員を一年間務めた。そこで地方のアマチュア写真家たちの強い創作意欲を感じて、少しでも彼らの役にたつことが出来たらと思い、昨年12月号の座談会を皮切りに、2009年1月号から「小松健一の写真道場」を連載している。興味のある方は、誌上をぜひご覧下さい。

そして、さらに一歩進めて僕が直接指導する小松健一主宰・写真研究会『風』をこの6月から正式に発足することにした。目的は写真家、作家を育てること。メンバーは、個展開催や作品集の刊行などをめざす創作活動を継続的に展開する。希望者は初心者、ベテラン、アマチュア、プロを問わず。ただし、やる気がある人に限る。年10回程の作品合評や年1回の合宿をはじめ、それぞれの個性を生かした創作活動を指導する。通信講座もある。(詳しい問い合わせ先は「フォトコン」6月号参照)定員になり次第締め切らせていただきます。やる気のある方は、お早めにご連絡ください。第一回目の研究会は、6月14日(日)午後1時から都内で行ないます。

 
津軽とは一面春田合掌す   小松風写 
 

津軽の取材を終えて帰京してから3日目。何か魂が抜けてしまったような脱力感を覚える。身も心も力が入らないのだ。実は今回の取材は、厳寒の2月の5日間に続くもので、6日間だった。走行距離は700キロメートル。前回と合せると1300キロとなる。運転は全てK編集者だ。だからいつもの運転を兼ねているのと違い、そんなには疲れないだろうと思っていたが、それがどっこい無茶苦茶に疲れた。というより全身がボロボロになった。とくに突然襲ってくる右背中と左腰の激痛には閉口した。今までにヒマラヤであれ、アンデスであれ、シベリアであれ、ニューギニアであれ秘境といわれたどんな所でも、こんなことはなかった。まさに初めての体験である。

その激痛は、息ができない、声が出ないほどで、久しぶりにこの感覚を思い出した。かって南米チリの軍政下の大統領選の取材中とイギリスの湖水地方の取材中に下脇腹に痛みを感じ、やはり声が出ないほどの激痛に苦しんだことがあった。この時は尿管結石だとわかったが、今回は原因が不明である。「酒の飲み過ぎだろう」などと言われそうだが、僕は仕事での旅のときは、思われているほど飲まない。「太り過ぎだ」とも言われそうだが、もうこの体型になって久しい。これが原因だとすれば、毎日激痛と過ごさなければならなくなる。・・・・・「じゃ歳だよ」。それも事実ではあるが、本人はまだまだ青年のつもりでいるのだ。病院へも定期的に行き、検査結果も異常はなかった。不可解千万!!

取材中は、地元の整体士に部屋に来てもらい、3日間マサージなどをしてもらい凌いだのだ。一番しんどかったのは、太宰の小説『魚服記』に登場する滝のイメージに似ていると言われている「藤の滝」の滝壺に降りるときだった。前日までの雨のため水量は多くなっている所へ、崖の足場の岩や土が滑り、細いロープや宙ぶらりんになっている脚立は、きわめて不安定なのである。足を滑らしたら、真っ逆さまに約30メートル下の滝壺へ。十中八九は助からないだろう。まして首から肩から4台のカメラをぶら下げているから、なんともバランスが悪いときている。途中、カメラを2台上に置いてくるのだったと思ったが、後の祭り。何とか真ん中あたりにまで、さしかかった時だった。突然あの激痛が襲ったのである。一瞬、あっもうだめだと思った。が、さいわいに足元に一本の木があっのた。そこに滑った足がひっかかったのである。助かった。・・・・・・・何とか下まで降りて撮影を終えた。

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(photo:K編集者)

藤の滝を取材中。太宰は「滝壺は三方が高い絶壁で、西側の一面だけが狭く開いて、そこから谷川が岩を噛みつつ流れ出ていた。」(魚服記より)と書いている。(photo:K編集者)
藤の滝を取材中。太宰は「滝壺は三方が高い絶壁で、西側の一面だけが狭く開いて、そこから谷川が岩を噛みつつ流れ出ていた。」(魚服記より)と書いている。(photo:K編集者)

登る時は、K編集者に1台カメラを担いでもらった。宿に戻ってからK氏がそっと自分のデジタルカメラを見せてくれた。それは僕が必死で絶壁と格闘している姿であった。「落ちてくる小松さんはとても支えきれない。せめて最後の肖像をと思って撮ったのですよ・・・・」と笑いながら語った。「それに本当に死ぬかと思いました」とも・・・・。ずいぶんと心配をかけてしまって、申しわけないと思った。内心、反省もした。僕はもう決して若くはないのだと。そして最後にK氏は「小松さん、賽の河原で何かにとりつかれたのではないですか?」と冗談まじりに言った。僕は、「とてもおいしい人間らしいので、なんでもついてきちゃんです」 とこれまた笑いながら答えたのだが、この夜の酒は、真にほろ苦かった。

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真冬の陸奥湾を撮影する。(photo:K編集者)

五月晴れ。風無し。

弘前ー青森取材

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撮り残してある弘前市内を巡る。弘前城の天守閣にも上がる。残雪のある岩木山は眉に届くような近さだ。もう一度りんご畑の花花を撮りたくて、アップルロードとよばれる道を南下してみた。そこで出会った農夫婦。甘いりんごの香りに包まれての仕事だが実にハードである。
雲ひとつない快晴。早朝からの撮影日和に神々に感謝する。窓一面に、霊峰津軽富士が広がっている。
 
鯵ヶ沢ーつがるー金木ー弘前取材 
 
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弘前の街のどこからでも岩木山は望める。いつもやさしく見守っていてくれるような気持ちになる。津軽人がうらやましい・・・・・・。
 
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夜、前回市内を案内してくれた弘前ペンクラブ会長の斉藤三千政さんと行きつけの店に出かけた。俳句をやるという女将が独りで切り盛りしている小さな飲み屋だ。一言でいえばそこは弘前の文化サロンみたいなもの。カウンターと狭い座敷は、詩人、俳人、新聞記者、テレビ局の人、出版人、作家、歌手・・・・・・などが所狭しと溢れかえっていた。そこへ中央の新潮社のK編集室長と、しがないフリー写真家の僕が闖入したので、さらに盛り上がったのは言うまでもない。僕とも共通の知人が多かった寺山修司研究をしている文芸誌「北奥気圏」編集長の鎌田紳爾さんと3人でもう一軒寄った。そこで見せられたのが太宰の『津軽』の初版本。美本であった。このBARのオーナーが作っている「津軽」という菓子をつまみにニッカの「北海道」をやったがけっこういけるのにも驚いた。

天候が崩れる。移動性の低気圧が通過しているせいで天気がめまぐるしく変わる。これもまたドラマチックではある。雲の流れ早し。昨夜に続き霜注意報が津軽地方に発令されていた。朝夕は4度まで冷え込む。太宰が泊まった深浦の旧秋田屋旅館から東の空に虹を見る。

五所川原ー金木ー深浦ー鯵ヶ沢取材
 
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金木の川倉賽の河原地蔵尊で。今から1250年ぐらい前の平安時代に開創されたとされ、下北の恐山と並んで歴史がある。太宰が高等小学校の時、書いた「僕ノ町」という綴り方に、この賽の河原のことを自慢そうに書いている。津軽地方にはいたるところに地蔵が建っており、土地の人々によって手厚く信仰がなされていることを感じる。
 
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先の取材の折も宿泊した鯵ヶ沢の宿で。目の前に広がる日本海に沈む夕日を眺めながら浸かる露天風呂はいい。この日、ぼくらの夕食の担当だった香葉ちゃんは、生粋の津軽娘だった。いい気分で部屋に戻ってから鏡に向かってパチリ。鬼も~い。と言われそう。
 

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3日目にしてようやく雨が止む。朝4時、岩木山がホテルの窓から見える。

五所川原ー蟹田ー今別ー三厩ー竜飛岬ー金木取材

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太宰が「蟹田ってのは、風の町だね」といったように蟹田に入ったら突然強風に見舞われ、何度も帽子が飛ばされる。蟹田川の岸辺にできた仮設の出店で待望の旬のトゲクリガ二とシロウオのおどり食いを食べた。トゲクリガ二は北海道の毛蟹の小型版のような感じであったが、味噌や身が濃厚でぎっしり詰まっている。シロウオは口の中で噛まずに活きたまま喉に流し込むのが通な食べ方だそうだ。喉のなかでシロウオがピチピチと暴れるのを感じるのがたまらないと「外が浜太宰会」会長の石田悟さんは、力説した。

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「ここは本州の袋小路だ・・・・・」と太宰が書いた竜飛は、2月に来た時は風速40メートル近かったが、今回も津軽海峡は荒れていた。
 
 

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左端が活きたシロウオ、醤油を注すと一気にあばれだす。丼の中がシロウオと茸の卵とじ。右端がシロウオの天麩。真ん中の小鉢は、太宰の好物だった篠竹の子の煮物。シロウオセット定食、しめて1200円也。 ちなみに、シロウオ(素魚)とシラウオ(白魚)は、よく混同されるがまったくの別物。しかし、蟹田ではシロウオのことを「白魚」と書いていた。地方によっていろいろと呼び方がことなるらしい。

津軽取材2日目、西の強風まじりの雨。夜半に雷を伴った雹が降る。

五所川原ー小泊ー十三湖ー木造ー五所川原取材

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小泊は太宰治の小説『津軽』のラストの名場面、子守のタケと再会した土地だ。
二人の再会をイメージした「津軽」の像と、日本海に面した食堂で食べたボリュームたっぷりの1000円の海鮮定食(ホタテ、メバル、イカ、タコの刺身、イカっ子の煮付、イカの塩辛、ふきの煮物、もずく、漬物に若布の味噌汁、ご飯)

青森での初日は、氷雨が降り続いた。

青森ー五所川原取材

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この日は、市内の太宰ゆかりの地を撮影してから津軽平野の中心、五所川原市へ。 この地に伝統芸能として伝わる立侫武多は、高さ20メートルを超える。11年前に再興された立侫武多をみたが圧巻であった。

海鳴りが夜どうし障子ふるわせる貧しき漁村の屋根低き部屋    健一

この拙い短歌は、今から30余年前、偏東風(やませ)が吹く季節、はじめて津軽の竜飛岬を訪れた時に詠んだものだ。 あれから5度ほど程訪ねているが、この春また旅をすることとなった。実はこの2月にも訪ねている。青森県下を強烈な低気圧が襲ったときである。青森気象台の観測始まって以来、第4番目の暴風で40メートルを超え、停電となった世帯は5万軒を上回った。そんな猛吹雪の中、編集者のK氏の運転で竜飛へと向かったのだから、行く先々で危険だから止めなさいと注意されたものだった。厳寒の津軽は何とか撮れたが、太宰治がふるさと津軽の一番美しいのは春だ。と書いたその季節にどうしても行きたいと思ったのである。その辺の気持ちをK氏はちゃんと心得てくれているからありがたい。今どきの編集者には見られない気骨があるのである。酒はまったくといっていいほど飲まないのだが・・・・・・・・。 太宰は小説『津軽』を書くために、故郷に向けて東京を発ったのは1944年5月12日。僕らは一日早い11日に出発することにした。本来なら太宰たちが満開の桜の下で花見をしたように、僕らもその気分を体感したかったが今年はとくに地球温暖化の影響で、開花が早く、すでに葉桜となってしまったようである。しかし、太宰の好物で「風のまち」蟹田の名産、トゲクリガ二とシロウオはまだ水揚げされているだろう。今回の旅の目的のひとつには、蟹田地方の人々が花見には絶対欠かせないというこの蟹を賞味することだ。でないと太宰の見た風景が立ち上がってこない。などと独断的に思い込んでいるのは僕だけか。

昨年来、取材を続けているこの企画は、僕が太宰を30年間追いかけてきた、いわば集大成にするつもりである。太宰治生誕100年の今年、「桜桃忌」には間に合わないが、9月末には新潮社から「とんぼの本」として刊行される予定である。また、この本は僕にとっては、特別な思い入れがある。それは写真の師、田村茂と太宰治の関係だ。太宰を撮った写真には、銀座・ルパンの林忠彦さんの写真の他は、全てといっていいくらい田村茂の写真であることはすでに多くの人に知られていよう。先生が亡くなってもう22年となるが、生きていれば太宰よりも3歳年上であった。多くの言葉を残してくれたが僕がいつも座右の銘としているものに「リアリズムとは、事象の深部を見極める事」。この言葉は色紙に何枚か揮毫していただき、いまも大切にしている。

太宰の小説『富嶽百景』の一節「富士には、月見草がよく似合う。」で知られる御坂峠からの夕闇の富士山
太宰の小説『富嶽百景』の一節「富士には、月見草がよく似合う。」で知られる御坂峠からの夕闇の富士山

5月9日から始まる写真展「丹野章の戦後」の内覧会とオープニングパーティが8日夜おこなわれた。ちようど始まる頃、初夕立が止み大都会に二重の虹が架かった。何か不思議な光景だった。パーティは丹野さんの人柄もあって大勢の人が参集した。初めにあいさつに立った日本写真家協会会長の田沼武能さんをはじめ、主な写真家は細江英公、芳賀日出男、田中光常、熊切圭介、石川文洋、桑原史成、木村恵一、英伸三、松本徳彦、芥川仁、市原基さんら。その他に元文化庁長官、落語家の立川志遊師匠、各カメラ雑誌編集長、各カメラメーカーの面々など多彩な顔ぶれが写真談議に花を咲かせていた。

パーティ会場で。丹野、細江両大先輩と若輩のわたくしです   (photo:T.shiozaki)
パーティ会場で。丹野、細江両大先輩と若輩のわたくしです
(photo:T.shiozaki)

なかでも丹野さんのVIVOの同志でもある細江英公さんが語った、「丹ちゃん」をはじめ、若かりし奈良原一高、川田喜久治、東松照明、佐藤明さんの6人のメンバーとのエピソードは興味深かった。それに日大の学生時代から3年間、丹野さんのアシスタントをした熊切圭介さんの当時「アパッチ砦」と呼ばれていた丹野事務所があったアパートの共同炊事場での暗室作業の苦労話などは、大きな笑いに包まれた。いま、日本写真家協会副会長の重責を担い写真界で大きな役割を果たしている熊切さんの「私が曲りなりにもこうして写真家として生きていられるのは、あの丹野さんの所での厳しい日々があったからだと思います」と言う言葉を感慨深く思ったのは僕だけではないだろう。 二次会は、僕が主宰する写真研究会「風」のメンバーをはじめ、京都、名古屋から参加した写真家たちと蕎麦湯割りでやった。同じ店に熊切、桑原、木村、、英、芥川、高井潔さんとキャノンの人たちがいて盛り上がっていたので、最後に合流した。日本写真家ユニオンの副理事長を務めている宮崎の芥川さんと久しぶりにじっくりと創作のことについて話した。彼の写真にかける熱い思いがひしひしと伝わり、僕も一層がんばらねばと誓いを新たに帰路についた。愉快な一日であった。ありがとう・・・・・・。

8時間余りにおよぶ展示・構成を終えて、丹野章さんと記念にパチリ(09.5.7)
8時間余りにおよぶ展示・構成を終え、丹野章さんと記念にパチリ(09.5.7)

 

5月9日~6月15日まで品川のキャノンギャラリーS(03-6719-9021)で開催される「丹野章の戦後」の構成・編集、飾り付けを手伝った。この写真展は60年以上にわたる丹野の写真人生を一堂に展示した初めてのものといえよう。第一部がサーカス、音楽家、舞踊家、壬生狂言と1950年代初頭からの作品や丹野のVIVO時代をはじめとした代表作。第二部は、沖縄40年と題して、復帰前と復帰後の沖縄の人々の暮らしと表情に迫っている。最近まで取材を続けて作品を発表している姿勢には心打たれるものがあった。9日におこなわれる講演会をはじめ、6回にわたって開かれるギャラリートークも貴重な話を聞けるだろう(すべて無料)。 また、会期中に丹野の著書『撮る自由ー肖像権の霧を晴らす』が本の泉社から刊行される。今回展示される丹野作品のなかから50数点収録されている。それで定価1000円だから、係わったものの一人としては、ぜひ読んで欲しい一冊ではある。肖像権の権威として知られる大家重夫久留米大学法学部特任教授が推薦文を寄せているので、その一部を紹介しょう。「1970年著作権法全面改訂にあたって、写真界を代表して、写真家の「著作権」を確立した著者が、ここに写真家の立場から「肖像権」を主張する。「写す権利」は主張してこそ生まれる。・・・・・・写真家は萎縮してはいけない。撮る人すべての必読・必携の書である。」 僕と丹野章さんとの付き合いは、もうかれこれ40年近くになる。実は丹野さんと死んだ親父とは同年だ。振り返ってみると僕の写真家としての歩みにとって、大きな影響を与えてもらい、またお世話になった人たちに、僕の日本写真家協会加入の推薦人である田村茂先生をはじめ、土門拳、藤本四八、渡辺義雄、木村伊兵衛、浜谷浩、田中雅夫、伊藤逸平先生たち大正リベラリズムの洗礼を受けた人々がいた。その世代より一回りぐらい若い世代が丹野章さんをはじめ、三木淳、石元泰博、芳賀日出男、大竹省二、東松照明、細江英公、伊藤知巳、藤川清さんら大先輩がいる。こうした多くの方々からたくさんの有形無形のご指導をいただき、今日の写真家としとの僕があることを丹野さんの作品に囲まれながらつくづくと思った。8時間余りにおよんだ展示が終わり、緑雨が降り続く品川の街にでて、久しぶりに丹野さんと二人で一杯やった。越後のへぎ蕎麦と栃尾の油げを肴にして。18年前に僕がヒマラヤに行っている時に癌で死んだ親父と酒盃をかたむけているような心安らぐ宵であった。

牧水の「枯野の旅」詩碑が建つ暮坂峠。峠を下った沢渡温泉に、僕の写真を全部屋に飾ってある有笠山荘がある

牧水の「枯野の旅」詩碑が建つ暮坂峠。峠を下った沢渡温泉に、
僕の写真を全部屋に飾ってある有笠山荘がある

 

夜更けなり肴は母の木の芽和え   小松風写

 

お彼岸に帰省できないこともあって、毎年のようにいわゆるゴールデンウィークに実家に帰るようにしている。ここ5年ぐらい前から本格的に、故郷・上州にレンズを向けるようになった。故郷をでて早、40年近くになってようやく写真を撮る決心が固まったのである。まったく個人的なことではあるが、ひとり暮らしの母が80歳を過ぎて、元気なうちに僕の体内に沁みこんでいる故郷という普遍的な残像と父母への想いを映像化して、かたちとして母に見て欲しいのである。 しかし、僕の育った風土に身を置くといつもの事ではあるが、だら~りとして体の力が抜けて、なにもする気がおきなくなってしまうのだ。母と暮らす五代目となる「五右衛門」と呼ぶ雑種の柴犬とお決まりの散歩に出ることだけが日課となっているだけだ。それに墓参り。これは本家や親戚のおじさんやおばさんの墓まで巡るとけっこうな時間を取られる。そして必ずやあらたに子ども時分に世話になった近所の人や親しかった人などが亡くなっているので、そこにもお焼香へ行く・・・・・。そんなことでたいていは2~3日は潰れるのである。でもなんだかこうした時がこころ安らぐから不思議だ。僕もあちらの世に近づいているのだろうか?・・・・・・・。 今回は2日目に突然、弟子の塩崎一家が訪れたので何時もひとりの母は大ハッスルで、小さなお客さんたちを歓迎していた。近くの山麓に行って、こごめやギョウジャニンニを採ったり、若山牧水の「みなかみ紀行」で知られる暮坂峠へ行って山独活を仕入れてきた。それに弟夫婦が山菜の王様と呼ばれるこし油やタラの芽、蕨を届けてくれたので二日間は、春山菜の宴会となった。塩崎君が甕だしの芋焼酎を土産につるしてきたので、僕にとってはいい酒盛りとなった。そうして子どもたちの笑顔や歓声がみんなの何よりの肴になったのは言うまでもない。

実家近くの山麓で、こごみ採りをする塩崎君一家の風景
実家近くの山麓で、こごみ採りをする塩崎君一家の風景

第40回二つ目ファイナル「志遊の会」で挨拶する立川志遊師匠
第40回二つ目ファイナル「志遊の会」で挨拶する立川志遊師匠

 

春驟雨の晩、立川志遊の二つ目ファイナルとなる落語会へでかけた。日暮里サニーホールと上野・広小路亭の2ヶ所でこの会は40回も続けられてきた。実は彼とは長い付き合いで志遊くんが前座で志楼と名乗っていた頃、もう15~6年前になるだろう。その間ずーと観てきたが、本格的な人情噺ができる若手落語家として期待をもって見守ってきた。最近の志遊の噺は、大笑いはもちろんだが、涙が止まらなくて困る。歳のせいで涙腺が緩んだんだよ。といわれそうだが、周りの客をそっと見てみると泣いているのは僕だけじゃないのである。彼の腕が上がったというのか、喉が上がったとはいわないですね。とにかくいいですぞ~。新進噺家では絶対のお薦めです。どうぞ、御ひいきに・・・・・・。

さて、その志遊くんが6月6日6時から銀座ブロッサムで「真打昇進披露落語会」を盛大におこなう。出演者には、師匠の立川談志をはじめ、談春、志の輔、左談次、ぜん馬などなど立川一門総出の感がある。そこで僕にできることは・・・・・と思って、志遊の写真を撮ってやることにした。題字は友人の書家、豊田育香さん、デザインは僕の写真の弟子の塩崎亨くんに頼んだ。彼はフリーの写真家になる前は、大手のケームソフトメーカーの3Dデザイナーをしていたのだ。今までの落語界のチラシにはなかった奇抜なものと案外評判がいいらしい。よかった・・・・・・・。そういえば先日、「銀座百点」の懇親会に参加したら、談志師匠も来ていた。先輩写真家の藤森秀郎さんが、「俺たち幼馴染でよく遊んだんだ。小松君紹介するよ」と師匠に引き合わせてくれた。その時、志遊くんの話に及んだ時、師匠は「彼は根からまじめすぎる男、よろしく頼みます」とペッコと頭をさげられたので、恐宿してとんでもありません。と席を辞したことがあった。今度の会ではその師匠と直系最後の弟子との共演が実現する。いまから楽しみではある。

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*今日から5日間、「上州故里」の取材をかねて墓参りや一人暮らしのおふくろに会いに行ってきますのでブログはお休みです。みなさんも楽しい休日をお過ごしくださいね。

山梨県立文学館の全景(甲府市)
山梨県立文学館の全景(甲府市)

ロビーでくつろぐ津島園子さん(奥の人)
ロビーでくつろぐ津島園子さん(奥の人)

 

芋の露連山影を正うす  飯田蛇笏

本来は万国の労働者の祭典の日であるメーデの5月1日に、甲府へ行った。この日、山梨県立文学館で、開館20周年記念・太宰治展・生誕100年のオープニングセレモニーがあるため、そこに新潮社のK編集者と参加したのだ。式典には、太宰治の長女・津島園子さんをはじめ、多数の関係者が参列していた。太宰の面影をたたえている園子さんが、静かに語った母、石原美知子の甲府での思い出のエピソードは、太宰との結婚前の女学校の教師時代の話で、美知子の人柄が想像できて心に沁みた。会場は僕の写真の師である田村茂が撮った三鷹時代の太宰の写真が多く飾られてあり、感慨深いものがあった。 その後、美知子と新婚生活を送った場所やよく通った喜久乃湯、散歩した御崎神社など甲府における太宰のゆかりの地を巡った。美知子を太宰に紹介し、仲人までした井伏鱒二が、どうゆう縁で石原家とつながったのか、興味をもった。(後日、津島美知子著『回想の太宰治』にそのいきさつが書かれていることを知った)日差しの影が長くなった頃、愛宕山へ登って甲府盆地と富士山を撮影した。そしてその足で御坂峠へと急いだ。先月来た時は、河口湖畔の染井吉野が満開であつたが、今回は峠に向かう道道の山桜がなんともうつくしかった。峠にある天下茶屋は、井伏や太宰が長逗留している。ここの八重桜も夕暮れのなか満開であつた。薄赤く染まった富士山と暗紫色の空には、三日月がかかっていて幻想的であった。前回は山中湖で深夜11時まで粘って取材をしたが、今回は早めに山を下って、甲州牛のワイン付けのステーキをK氏にご馳走になり満足いっぱいで帰路についたのだった。

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