写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

2009年4月アーカイブ

かって蜀の都であった四川省成都で三国志物語の劇をみる
かって蜀の都であった四川省成都で三国志物語の劇をみる


 三国志演義の前半のクライマックスである赤壁の戦いをジョン・ウー監督が映画化した「レッドクリフ」の最終版を観た。スケールの大きさは1部をはるかに上まわっていて、観客を圧倒させていた。しかし、史実はもちろん演義からも大きく異なるストリーは、例え映画ではあっても違和感を禁じ得なかった。僕は三国志巡歴を20年あまりしていて、赤壁はもちろんその舞台となった土地は、ほとんどといっていいくらい訪ねている。その一部は15年前に岩波新書から刊行した拙著『三国志の風景』に収められている。その後もずーと旅を続けてきているので、よけいに興味を持って観たのだ。そして映画というものは、多くの人々の力の結集の賜物であり、巨額な資金が必要なのだと改めて思った。 この映画は、今までの三国志物の中では群を抜いていることは間違いないであろう。しかし、映画を観終えて僕の体内をふつふつと湧きあがったのは、「金もない、組織もないフリーの写真家の俺一人でこの映画よりも感動する三国志の本を創ろう」という思いであった。大都会の夕暮れの雑踏のなかで「やってやるぞー!!」と思い切り叫びたい衝動にかられたのだった。何を馬鹿なとお思いになるのは当然ですが、とにかく僕は決意をしたのです。後何年かかるかは、わかりませんがこの夢、かならず実現させたいと思います。あまり期待せずに待っててくださいね。今年もまた中国へ旅に行かねば。取材費作りが大変だ~。「サライ」6月号の三国志特集号に僕の写真が何点か載りますよ。

ネパール・ポカラ空港から夜明けのヒマラヤを望む(2008.9)
ネパール・ポカラ空港から夜明けのヒマラヤを望む(2008.9)


太宰が故郷・津軽の金木を除いては、一番長く暮らし、終焉の地となった三鷹周辺を巡ってみた。この日は昨日の強風雨が嘘のような五月晴れ。玉川上水を撮影するために最初に降り立った新小平の駅前は、ほころび始めた藤の花の香りが漂っていた。新緑の玉川上水をどうしても川面に下りて撮りたかったので、いろいろと探した結果、一箇所だけあり、それが小平にある監視所の近くだった。遊歩道になっていてイメージとは大分異なったが、かっての上水の面影はあり、若葉に降り注ぐ木漏れ日が綺麗だった。 その後、この日助手を買ってでてくれた写真家の塩崎亨君と三鷹に向かい、新潮社の編集者と合流。当時のままで残る三鷹の跨線橋をはじめ、いわゆる太宰と関わりのあった場所はほとんど巡ってみた。実は、僕が太宰をはじめ、日本の近現代文学の風土を取材開始したのは30数年前、その頃にしっかりとこの三鷹周辺を撮っていればとつくづくと思った。とくにここ10年余りの街の変貌には、愕然とせざるを得なかった。夕暮れせまる井の頭公園を抜け吉祥寺まで歩いて、この日の取材は終えたが延べ6時間以上は歩いた。久しぶりのいい運動になった。駅前の沖縄料理の店に入って、塩崎君と島(泡盛のこと)を一杯やったが、乾いた喉に沁みて美味しかった。石垣の白百合、伊是名の常盤などなかなか渋い泡盛を置いていた。小さな店だったが気に入った。心地よい酔い。さて写真はどうか?・・・・・・

日一日と新緑の葉が鮮やかとなっていく季節となりました。お約束していた「写真家小松健一のオフィシャルサイト」の開設が、伊馬流さん、藪下博文さん塩崎亨さんら若い仲間たちの絶大な協力で今日オープンすることができました。本当にありがとうございました。しかし、まだ本格的な段階ではありませんので、みなさん方のご意見やご提案をいただき、より楽しく、そして役に立つサイトにしていく所存です。今後ともよろしくお願いいたします。  合掌

スタジオcalfで打ち合わせをする仲間たち

スタジオcalfで打ち合わせをする仲間たち

青山・草月ホールにて。川田公子率いるみらび太鼓の公演

青山・草月ホールにて。川田公子率いる「みらび太鼓」の公演

 

「川田公子・太鼓の世界」を青山にある草月ホールに聴きにいった。彼女の公演は今回で39回目になるというが、僕は3年前の沖縄の国立劇場以来であった。今回のテーマは、”熊野からす”と言う神話の世界を川田をはじめ、みやらび太鼓の女性の面々が、勇壮な奥熊野太鼓の男たちの協力を得て、表現するというものであった。

この熊野からすとは、神武一行が東征のとき、導いたというヤタガラスのこと。中国古代説話では、太陽の中に棲むという3本足の赤い巨鳥で、金鳥とも言われている。ちなみにサッカーの日本代表のマスコットマークは、このヤタガラスである。

さて、今公演は沖縄の血を色濃く受け継ぐ、川田が編み出した舞踊的な太鼓打ちがいかんなく発揮されたと言えよう。毎年、夏になると沖縄島のあちこちで響きわたるエイサーの太鼓のリズムが彷彿させられた。かっての和太鼓の概念を払拭させられた観客は少なくなかったであろう。そこへもってきて、熊野の霊験な信仰心のなかで育まれた奥熊野太鼓との夢のコラボレーションである。照明や音響など演出も行き届いていて心地よかった。僕は、師走の大都会の一隅での、わずか一時間半余りの時間ではあったが、この年の最後に、至極の時をいただいたと思ったのである。そして、流球から薩摩、土佐、そして熊野へと連なる黒潮の流れとその無骨な文化を日本人の一人としてうれしく思ったのであった。 (2008年12月11日 記)

小春日和となったこの日、久しぶりに神楽坂を歩いてみた。12月4日 神楽坂を歩いてみた矢来町にある新潮社のK編集室長と会うためであるが、メトロの飯田橋で降りて、ダラダラ坂の神楽坂を登って行ったのである。艶っぽかった神楽坂もここ数年で変貌し、東京のどこにでもあるような原色が氾濫する若者の町と様変わりしていた。三味の音色も、水打ちの路地も、芸者衆の艶やかな姿も消えていた。とくに残念に思ったのは歴史ある町の店がなくなっていたことだった。江戸中期からこの地で店を構えていた由緒ある酒屋が跡形もなく、広々としたパーキングエリアとなっていた。

文豪、夏目漱石が子どもたちを連れてよく食べにきていた西洋亭は、河豚(フグ)料理の飲み屋へ変わっていた。かつてご主人に芳名録を見せてもらったことがあるが、名だたる文化人がこの店を愛していた証であった。明治の文豪、森鷗外や坪内逍遥らも愛用し、石川啄木も死の数ヶ月前に、病床をおして、本郷から車屋を呼んで相馬屋の原稿用紙を求めにきたと日記に綴っている。その相馬屋はいまだあった。以前はよく、相馬屋オリジナルの原稿用紙を求めに来ていたが、久しぶりに店員さんに「ここの原稿用紙まだありますか」とたずねると、「はーい、ありますよ」と奥から持ってきてくれた。桝目の計の色が朱と緑とブラウンの三種類あったが、かつてよく使っていた朱と緑色のを求めた。200字詰め100枚綴りで1冊280円であった。少し値上がったなと思った。僕は大切な人に手紙を書くときに、いまでもこの相馬屋の原稿用紙を使うのである。
(2008年12月8日記)

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